散文・自然は不思議

ぱっと思いついたものはツイッターに書きたくなるが、今日はブログに書くか。そういえば、このところあまりツイートしてない。手ごたえがない。こうして、ブログに書くことで、いつか、誰かが検索して見つけてほしい。ツイートは検索結果に出るっちゃ出るが、クリックしたくならない。140 字という制限もあることだし、何回リツイートされたか、何回フェイバリットされたか、誰にどうリプライされたか、という余計な情報のほうが目に付きやすいし、安っぽい。とまあ、悪口はこれくらいにしておいてだな。

どうも、オルディン氏のポケモンFR実況を観直している影響が出ている。

人間が原子核レベルの大きさで、米粒が宇宙だったら、隣の米粒が別の宇宙だろ。そして、釜は、さらに巨大な宇宙である。長い年月をかけて米の形状がわかったところで、釜は未知である。実際に、この宇宙は、そのような、ものすごく小さい部品のようなものかもしれない。と、考えると、壮大すぎてわけがわからない。

自然界を形成している、4 つの力。それから、空間、時間、物質。わけがわからない。この世界は何なのか。

コンピュータを手作りするのは難しい。不可能に近い。なのに、コンピュータより遥かに複雑な、生物というものをつくるのは簡単だ。性交をすればいい。印象的なギャップである。

PS3 に PC, PS Vita にディスプレイ、インターネット、電気、モデム、ルーター。テクノロジーなしには生きていけない人間になった。社会ももはや、それなしには成り立たない。核戦争でも起きて、文明的なものが破壊されたら、再建するのは難しいだろう。コンピュータをつくるためには、コンピュータをつくる機械が必要だ。その機械をつくるのもまた、機械や道具が必要になる。そして何より、設計図が失われれば、絶望的だ。まあ、よくは知らない。圧倒的な力を持つ技術者の頭の中には、あらゆるノウハウが蓄積されており、焼け野原と化した世界の中にいても、何をどうしてどうすればコンピュータをつくることができるのか、わかっているのかもしれない。しかし、そうした人間さえも滅んでしまえば、また、原始時代からやり直しである。ロストテクノロジー。古代には、現代よりも発達した文明が存在していたのかもしれない。生き物は勝手に生まれる。自然は逞しい。DNA という設計図。生体を形成するのに必要なものの中に、知識や技術は含まれていない。それ相応のたんぱく質などの高分子が、機械のように振舞って、生物を建設していく。驚くべきことに、それは自動で行われるのだ。なんというしたたかさなのだろう。

人類も、したたかなものをつくるべきだ。バラバラに壊れても再生する、高機能な機械。水中でも宇宙でも動作するコンピュータ。自力でエネルギーを確保し、いつまでも動作しつづける。それはまるで、生き物のようだ。生き物である。増殖することで、一つが壊れてもいいようにする。寿命がくる前に、増殖しておく。生き物は、なんて賢いのだろう。こうやって考えてる人間の脳みそは、自然の全てを理解することはできないだろう。脳だって、自然の産物である。自然の賢さには敵わない。創造主を超えることはできない。

感動のほうが先走って、落ち着いてないから、うまく文章にできない。

とにかく、自然は人知を超えた神秘を有しており。それが不思議で。自然から人間が生まれたということも不思議で。自分という存在によって、観測されているこの世界は、現実なのか夢なのか。自然はすごいと思っているこの感情を発している本人は、まぎれもなくここにいる私であるという感覚があるが、私とは一体何なのか。ここにこうして体があり、キーボードを指で弾いている。それは幻なのではないか。実在するのだろうか。精神とは何なのか。物質と力で支配されているように見える自然界に、主観的体験というものが発生する。それはイレギュラーに思えるが、実は、石ころにも心があるのかもしれない。わからないことだらけだ。

子どもの頃から、今もなお、自然への疑問は尽きない。上記のようなことをあれこれ不思議がっていると、日常生活のあらゆる全てがくだらなくなってくる。だから、ほどほどにしておかなければならない。これほどの魔力を有するテーマは他にない。