コンテンツの投稿に関して思うこと

とても久々にブログの記事なんぞを書いてみる。何か書きたいことがあるわけではない。そんなら、ツイッターにでも書いてろ、という意見はごもっともである。いな、ツイッターは、本来、テケトーになんでも書いていいサービスではない。せめて、近況を投稿するべきだ。…とまあ、そんな律儀になっていても自分が狭苦しくなるだけだし、実際には、ツイッターに投稿される内容の9割以上はクソである。右に倣え。あるいは、自分の人生のために、自分勝手になれ。

ツイッターは寛容だ

ツイッター社は、日本人がいっせいに呟く「バルス」によるサーバー高負荷状況を軽減するために、サーバーのプログラムだか、ハードウェアだかの措置をしたらしいが、その際、「くだらねえこと呟いてんじゃねぇジャップがよぉ!お前らの何の役にも立たねぇクソ発言のせいでサーバーが落ちるんだよ迷惑だ!規約違反で BAN すんぞコラァ!」なんて台詞を言うことはしなかった。彼らは、クソ発言を黙認しているのである。

こんな駄文を書くのは久々だ

いつくらいぶりだろう。こんなものを書くのは。データ上では 2013-11-26 の記事が直近である。今日は 2014-09-16 だ。一年ぶり、とまではいかないが、それなりに月日が経っている。

日記にツッコミを入れる時代

さっきまで「はてなブログで引退発言をする人の特徴」という匿名ダイアリーを読んでいた。この文章はおもしろい。大昔、テキストサイト全盛期だった頃、ここまで、自意識過剰の物書きたちを真摯に評価した文章がかつて投下されたことがあっただろうか。僕の記憶にはない。

その意味で、非常にいい時代である。特に、はてな界隈には、いいツッコミ役が揃っている。つくる人、それを叩く人、褒める人、この三者は、そこら中で見られる。ただし、それらの人々を冷静に俯瞰し、筋の通ったツッコミを入れる人というのは、これまでは幻とされてきたのだ。

評価されるには

昨今のインターネットでは、誰もが簡単に、作品・成果物といった何かしらを発表することができる。ニコニコ動画には、「歌ってみた」というカテゴリなんかが存在していて、既存の楽曲のカラオケをやる程度の動画が、一部のユーザーには人気があるようだ。YouTube には相変わらず、ホームビデオが投稿されまくっているし、かつては一部の物好きだけが活用していた Twitter は、庶民的な日常会話で溢れかえっている。その他にも、イラストを投稿できる場や、音楽をアップロードできる SNS など、多種多様な発表の機会に恵まれた世界がそこにはある。

コンテンツを生み出す人口は増えたはずだが、そのすべてが評価されているわけではない。愛なき MAD にコメントは付かないし、画力がなければ立ち去られる。観てもらえる、聴いてもらえるならば、まだましだが、それさえしてもらえていない作品が、Web 上にはごまんとある。小説ならば、冒頭の一行で心をつかむ必要がある。それ以前に、そのページをめくられる必要があるので、まずは表紙や作品タイトルが心惹かせなければならない。さらには、まず、ユーザーが、その小説サイトに辿り着かなければならない。そのためには、サイトの見つかりやすさが重要だ。だがしかし、それをクリアしてもまだ、普段から小説を読まない人は、そのサイトのことを知らないだろう。最重要なのは、話題性であり、広告の仕方である。

作品について、2ch まとめサイトに載るくらいに盛り上がったスレが立てば、スマホが普及しきっている昨今、まとめのひとつやふたつは、ごくふつうの一般庶民は見ていると思われるので、かなりの広告効果が得られるはずだ。

ともかく、認知されなければ、視聴はされないということだ。さらにいうと、テレビで取り上げられたりなんかして、広く視聴され、話題になった作品は、たとえクソだとしても、どうしてこんなものが話題になるのか意味が分からないという怒りが各地で爆発し、「酷評」という形で評価が得られるので二度おいしい。

改めて考えると、結局、いい作品をつくるべき、となるね。半端ない作品なら、視聴者がたった一人でも、その一人が誰かに教えるに決まってるから、口コミでどんどん広がっていく。

が、いや、でも、どうなんだろう。誰にも知られていない、半端ない作品がネット上に落ちてたとして、それを視聴して、どう思うだろう。怖くなるんじゃないか。こんなすごいものが話題になってないなんておかしい、これは既存の名作であり、違法アップロードだとかいって。

ニコ動のコメントには・・・

昔、とても質のいい音楽の動画が、ニコ動に上がっていた。再生数はそこそこだったが、コメント数が極端に少なかった。その数少ないコメントの中にこんな感じのやり取りがあった。

「なんでコメント少ないの?」

「完成度が高すぎるからだ」

完成度が高すぎると、ツッコミの余地がなくなる、といったニュアンスだったように思う。あの動画を観て、各々思うところはあったが、口に出して言う気にはならなかった、ということになる。

あのやり取りが真実だと仮定するならば、ほどほどに雑なほうが、評価を得やすいということになるが、はてさて、無口なオーディエンスの本音は、彼のみぞ知る。