古巣滞在記2017

day 2

実家にいると無限に意識が低まってしまう。"無限に"は大げさだし、"意識"とは何か、それが"低まる"とはどういうことか。説明しようとすれば、心の内のそれらを一つ一つを丁寧になぞる必要がある。そんなくすぐったい作業をする気分ではない。もうそんなことができる年齢ではないのだ。だが、ツイッターでは、当たり前のように分かりづらい表現をよくやっていて、伝わると思っている。伝わっているはずはないのだが、普段の一人暮らしの自分は、人と会話をする機会がないので、伝わらないことがわからない。このロジックもなかなかに雑なので伝わらないかもしれないが、わかってもらいたい。

感情というものは多種多様であるが、大分類すれば片手で数えられるほどしかない。生存に不可欠な感情以外は生まれる必要もないだろう。しかし生まれるのであって、大切にしたい。この気持ちが、実家では合わない。親にはこのクオリアが存在しないのではないかと思える。僕の目にはそう映る。

親はどうしてああ雑なのだろうか。中国のコウシかなんかが、"親が子に願うのは健康だけです"というような言葉を残していた。それを思うと、まず、僕自身独身子無しだから、そのような感情を知らぬ脳味噌マンなわけで、知ってるマンは、精神構造が大いに変化する可能性がある。すなわち、雑になるのだ。

彼らは、外界からの刺激を脳の栄養とする機構を持たない。だめだ。そこまで拒絶することはないはずだ。

僕には当事者意識というものがない。現実は嫌いだ。これは大きな要因だろう。

以上の文章はつまらない。こんなものは薬にならない。

思い出してみるに、周りに迷惑かけて周りへの申し訳なさがなかなかにあって、まあしかし、こんな気持ちはあれど、謝罪や謝礼がめんどくさいほどには誠意のない感情である。

いつも明るかった友人が、考えられないほどに落ち込んでいて、今までで初めてである。このような人間といても仕方がない。楽しくない。また明日会う約束をしたが、いつもの言葉ワールドを展開してくれなければ、最悪、僕が話題を用意しておもしろおかしく希望のビジョンが芽生えるような話を展開していかねばならなくなる。あくまで楽でなければやる意味はないが、果たして…。

ただでは希望なぞ語ることはできない。明日も明後日も来週もやっていけるという約束された未確定の未来を知っている場合のみである。


day 3

小説を読むのも、活字を読むのも、話を聞くのも、数学をわかろうとするのも、すべては同じ。それらによって、脳内にイメージが浮かんで有機的に絡み合っていくのを見ているのが心地よい。

音楽はまた別の作用。

これを書いている者の父に当たる存在が、休日の昼間から酒を飲み、柱も筋も通っていないいちゃもんをべらべらと強く言い散らしているのが耳から通って胃を荒らしている。

母が話を聞いているようで聞いていないようないい加減さを持っているのは、父の話を真に受けないようにフィルターを発達させたからかもしれない。

父には小さいことによく気づけて優しい性質もあるのだが、それによって、機嫌の悪いときには、細部に至るまで蟻のような小鬼を飛沫感染させる。

存在が酒を飲み鬼を言い散らかすさまは、地球の大部分が灼熱の金属で形成されていることのよう、日常では意識されぬ背景だったが、世の中にはありがたい話をするおっさんもわりといるという意識で占められた脳にとって俄然前景となり、胃をやられることになった。

ここは古巣。空気はしんとしており、車が走る音、飛行機の進む音、草刈り機、遠くで不明の重い金属音がしている。人通りはなく、近所のうっとうしい賑わいもない。閉息感。古いものを壊して新しいものを芽生えさせる風が入ってこない。地球そのままの姿。潮の満ち引きのように、自然の法則によってただここにここが本来として有る。

どうにかなるべきだ。東京は新陳代謝が激しい。人の多様性によって争いの如く歪な螺旋模様が未来へと伸び続ける。論理的思考は道標であり、理想は頂に立つ旗である。人体は天候によっても容易に刻一刻と左右されつづけていく。そのような頭や内臓や骨格が、主体である精神の不確かな土台だ。

わからなくなってきた。改めて考えると、わからない。ただとても単純なことがある。心の支えとは、ただ、胸の中、何かをかわいがる感情でいっぱいにすればその分がそうなのだ。

気が散るということが大切だ。邪魔をされることが大切だ。ただ素直に、無邪気に、バカみたいに、こどもみたいに、めいっぱいのわたあめにまみれていく気持ちを忘れないでもらいたい。