Web サイト「日本アニメ(ーター)見本市」感想

「日本アニメ(ーター)見本市」というサイトがある。

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の監督である庵野秀明と、ニコニコ動画の運営ドワンゴらが送る、

この先の映像制作の可能性を探るWEB配信アニメーションシリーズ

である。

有名・無名、問わず、実力のあるクリエイターが、さまざまな短編アニメを制作する。そのアニメ群が、このサイトに無料で公開されている。現在 13 作品。

一通り鑑賞した。すべての作品に共通しているのは、動画時間が短く、10 分ほどである、ということである。商業アニメのようなポップさには重きを置かれておらず、「静止画を連ねてアニメーションをする」という文脈において、個性的な表現に力が入っている。

いくつかの作品への感想を以下に記す。

具体的なストーリーは描写されておらず、「エロスと暴力の刺激的で良い表現」の最高峰を目指したかのような、ひたすらにエッジの鋭い映像がスピーディに展開される。女体が扇情的な動きをしたり、人が人を殺したり、食べたり、潰したり、撃ったり、ゲロを飲ませたり、泣いたり、笑ったり、苦しんだり、思い出したり、飛んだり、抱かれたり、壊れたりする。説明文によると、ミュージックビデオとのことで、実際、ずっと音楽が流れている。セリフらしいセリフは登場しない。

18禁といえるほどの性性・残虐性はないが、そのギリギリを攻めていく姿勢が感じられる。カッコよさ、激しい感情の連想を掻き立てようとしているのを感じる。あくまでエンターテイメントとして収まっており、人が人を思いやる人情が込められている。不快にならない程度の優しさをもって視覚と聴覚への大刺激を与えんとする意欲が感じられる。

手書きの荒いタッチをそのままに動かしている。人間が小さくなったので、あらゆるものが巨大になった世界を描いている。片手で持てるほどの食器が、巨大に見える世界の絵は、視点の転換を促している。戦争を見て、平和に気付くようなことだ。

小さくなった人間はゴキブリ並みのスピードと身軽さがあり、部屋を走り回ることが星間飛行のごときビジョンだ。映画スパイダーマンや、進撃の巨人のような、爽快感のある駆け抜ける景色を体験することができる。

fps が低いので、静止画一枚一枚をコマ送りにしているということに気付かされて、「この上手い絵を一枚一枚描いているんだな」という、苦労だったり、その技術の高さを改めて認識させられる。

後半に入り、人間がとんでもない嫌悪感と焦燥感に襲われる。その瞬間、絵の荒さが激しくなり、それが動くさまは、ぐちゃぐちゃだ。しかしながら、絵が上手い人は、下手な絵を描けないので、それでも上手いのだ。

命の危機続きの小さな人間が、普通の人間に一発お見舞いしたあと、仄暗い物陰で、腹を抱えて大笑いするシーンが好きだ。BGM も止むので、安堵感・静けさ・解放感を得られる。しかも、そこで、携帯のベルが鳴り、それがまた不思議なメロディであり、小さな人間が不思議がるので、おもしろい。それから、小さな人間がスマホのタッチスクリーンを操作するが、両手で一生懸命なところが可愛く、たとえ体が小さくても画面に触れることができれば、コンピューターを操作できるという、新たな便利さへの気付きもある。

ひたすらにロボットと怪獣が戦う。ウルトラマンサイズだ。ロボットが、あまりにも変形と攻撃を繰り返すし、倒したと思えば新しい敵が現れ、ひたすらに光るわ爆発するわ「ピューン!ピカーン!ジュワジュワドーン!シャキン!ドシン!キュイイーン」と SE が息つく暇もなく繰り出されるので笑わずにはいられない。

一般のバトルにおいて、戦況の変化は、かくかくしかじかあるものだが、このアニメにおいては、そんなことどうでもいいのであって、ただひたすらに、やりたいシーンを描き続ける、欲にまみれたロボアニメバカによるストレートな映像作品である。

BGM が不思議な感じがする。激しいバトルが繰り広げられているのに、悠長に歌い上げている。

その光はなんなんだ?とか、どうしてこうなった?とか、これはなんだ?とかいう疑問は尽きない。そういうのは裏設定があるのかもしれないけど、別にわかる必要はない。

一番好きな作品。ダサい主人公が、ダサい歌を歌う BGM に乗って、短編が始まる。曲もダサいし、歌詞があまりにもダサすぎて熱い。岡村靖幸DJ OZMA 系統のそれである。アニメの内容は、主人公が、ヒロインを助けに、敵の砦を落としにいくもので、ダサいけど強い。強いけど、どんなにかっこつけててもダサいのがたまらない。

歌で「一二三で大逆転!宝島へと船を出せ~!」のところがダサすぎて最高だ。人々が、こういうものを素直に表現することができれば、恥の文化である日本の暗黒面が緩和されるのではないか。

手書きっぽいやつ。タイトルのロゴ・フォントがかっこいい。クリエイターだか思想家・活動家・哲学家的な主人公が、くだをまきつづける。クリエイトした世界に苦しめ続けられる。何のことが表現されているのか、意味がよくわからないのだが、創作活動における葛藤のような何かを訴えている。

連想することはある。人生において、いいこととは何なのかという問いは尽きない。刹那的な快楽に溺れて、最後まで笑っていられるのは幸せだ。家族を持って、子どもを生んで、その子どもに「何をつくるのが一番いいのか」の問いを託すことも幸せなような気がする。どんな作品をつくっても、一生楽しめるようなすごいものには至ることができない。俺は完璧主義なので、それほどに価値のあるものにしか意欲が出ない。だから、子どもを「つくる」のだ。子どもがすごい作品をつくるかもしれないからだ。そうでなくとも、その子がまた子どもをつくれば、その子どもがつくるかもしれない。仮に、こうして、いつまでも、孫から孫へと問いが移譲されつづけても、いつかはすごいものをつくる子どもが現れるだろう。その可能性は確実にある。ゆえに、子どもという作品をつくることが、最もすごいことなのだ。

子どもというものを選択肢から外すと、自分自身で、とてつもなくすごいものをつくる必要が出てくる。何をつくっても納得はいかないはずだ。つくっては壊し、繰り返すだろう。